七転び八起き

ハロプロと観劇と、恋人のキツネさんとの同性同士の同棲生活のこと。

極上文學 風の又三郎・よだかの星を観てきました。(3/11 マチネ)

やっと観られた極上文学

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ずーっと生で観たいと思っていた、極上文学。
今回の「風の又三郎・よだかの星」を観てみたら思った以上に素晴らしかった。
宮沢賢治、じつはあんまり得意じゃなかったのだけど、役者さんの言葉で紡がれるとこんなにも綺麗な音、情景として表現されるのかとびっくりした。東北の豊かで厳しい自然の情景や、宮沢賢治独特の幻想的なきらきらとした景色があざやかに目に浮かぶようだった。
演者さんの力と演出の素晴らしさが、文学作品のもともとの言葉のうつくしさを引き立てているんだと思う。文学作品の世界観の中に浸れるあの時間はとてもとても幸せだった。(べつの作品もDVDで観たことがあるけど、やはり作者さんごとにことばの選び方や世界観が大きく違うなあというのを、実際に言葉で読み聞かせられると実感する。)

 

お話のこと

お話は、「風の又三郎」がメインにある中で、学校の生徒たちが読む本の中に「よだかの星」があるという構成。そして風の又三郎の「一郎」の家族構成のところに、少し「ひかりの素足」のエピソードが混ぜられている。
感想が、うまく言葉であらわせない…。キャッチコピーが「これは“さいわい”と“さびしさ”のおはなし。」だったのだけど、まさにそういう感じ、としか言い様がない。表現できないけれど、とても感情を揺さぶられる物語だった。
風の又三郎では、こどもの残酷で鋭敏な感性で拒絶されてしまい、さよならも言えないまま去るしかなかった三郎や残された一郎、嘉助の視点での「さびしさ」ももちろん感じるのだけど、みんなで一緒くたになって遊んで、空を見上げた時の幸福感、一瞬のきらめき、そういったものもあのラストだったからこそより一層強く感た。
よだかの星では、だれからも拒絶されるよだかのさびしさも感じたけれど、一方で傲慢で偉そうな鷹から殺される前に、いのちを振り絞って飛び、星になって美しく輝くよだかには、悲しく寂しいだけではない、別の感情も感じて何度も思い出しては考えてしまう。(誇りとか、決意のうつくしさとか、あのとき感じたことに名前をつけようとしてみたけれど未だ上手くいかない。)
なんだか、人間って、こんなに繊細で複雑な感情を持つことができるんだっていうことを改めて目の前で見せられたようような気持ちで、驚くような嬉しいような気持ちになった。「さいわい」も「さびしさ」も、「怒り」「喜び」に比べたらずいぶんと淡い感情。でも、そのなんとも言えない感情を確かにわたしたちは感じているんだなぁ…。それを物語を通じて表現できる宮沢賢治も、それを表現してしまう役者さんや演出に関わるすべての人も、物凄い…。

 

納谷くんのどこか神秘的な「少年感」

風の又三郎では、本当に納谷くんの演技と存在感が素晴らしくて、納谷くんのデビューの頃から観てきた身としては、着実に役者として成長してきている彼に、誇らしいような気持ちになった。
じぶんとは明らかに違う見た目で使う言葉も違う、よそからやってきた三郎を、少年たちは色んな意味で特別視する。それは「風の又三郎」というおそろしい風の精としての側面もあれば(原作にはないけれど、「ひかりの素足」のエピソードが加わり一郎の弟が風の又三郎に連れ去られたのではないかという疑念を少年たちにつぶやかせることで、より一層少年たちの恐れの気持ちがわかりやすく表現されていたと思う。)、おそらく豊かな家庭に生まれ、賢く美しい三郎に惹かれ、仲良くなりたいと思う側面もあったと思う。
そんな三郎という役の説得力があった。納谷くんの、透明感のある整った顔つき、背の小ささ、手つきの美しさ、そして意外と低めの声…すべてがあの役のためにあるかのよう。たよりなげな子供の仕草と表情をしているときの彼と、低めの声を存分に操る「風の又三郎」としての彼。どっちも素晴らしかった。可愛いのにどこか妖艶な感じがするところがよい…。ガラスのマントを羽織ってそらを飛んでゆく前の、ぶらぶらと足を揺らしながらセットに斜めに座って、つめたい感じの表情をしているシーンが神秘的でとても好きだった…。
最終的には、少年らしい残酷さで村の子供たちは三郎を拒絶し、村の子供たちの前から三郎はいつの間にか姿を消してしまう。最後の、「二人はしばらくだまったまま、相手がほんとうにどう思っているか探るように顔を見合わせたまま経ちました。」というシーンでは、なんともいえないような気持ちになった。きっと後悔もあれば寂しさもあれば、安心するような気持ちもあって、いろんな感情が渦巻いていたけれど、ことばにならなかったのだろうなあ…。あれから、三郎はどうなったんだろうなあ…。残された村のみんなは、ずっと、ちょっとした傷や不思議な思い出として、あの頃のことを心のどこかに仕舞ったまま生きていくんだろう。そしてきっと、三郎とのことが、ほんのすこし、その後の人との関わり方や人生にも影響していくのだろうなあ。
ちなみに、ラストシーンにほんの少し、行く末を暗示するシーンが付け足されていたけれど、わたしは、ちょっと蛇足かなと思った。どうなったのかな、とそれぞれが思いを馳せるというのがよいのではと思う方なので…。

 

藤原さんのよだかのせつなさ

そして、ふじわらさんのよだかの星。
ふじわらさんは、なんという凄いひとなんだろうと思った。
かなしいひと、さびしいひとを演じさせたら誰よりうまいと思う。ふじわらさんが演じるからこそ、あんなにも心を動かされて、泣いてしまった。
「よだかは、実にみにくい鳥です。」という言葉から始まるこの物語でよだかは誰からもただみにくいというだけの理由で疎まれるのだけど、彼は最初から、ずっと不安げで儚い表情をしている。鷹から酷いことを言われたときの返し方も、これもちょっと上手く言葉にならないのだけど、なんでこんなふうにうまく表現できるのだろうという感じ。星に願いを告げるときの必死さも、もう他に行くところがないのだという切実さを感じる叫びだったし、最期のシーンですこし柔らかい表情をするところも、すごく胸を打たれた。
……はあ。ほんとうに、感想にならない。うまく言葉にならない凄みのある表現だった。そして一方で、言葉にして分解するのがもったいないくらいの演技だった。

ほんとうに技巧も心もある人だよ…。彼のお芝居に真摯に向き合い続ける姿勢を、本当に尊敬します。彼のよだかを見られて良かった。

 

ひととは「ちょっと違う人」のさびしさ

あらためて感想を書いていて、風の又三郎もよだかの星も、まわりと「ちょっと違う人」の孤独を描いているなと思った。宮沢賢治は、どちらの作品でもわかりやすい「救い」を描いていない。だからこそ、見た後しばらく考えこんでしまった。
よだかの星を観たとき、よだかと自分自身を重ね合わせたりもして。世間一般とは少し違うパートナーのいるわたしは、もちろん世間の理解も深まっているとはいえ、よだかのように家族に迷惑をかけるからと関係性を自ら断ち切るようなこともあるかもしれない、とか。
まわりと「ちょっと違う」人はひとから拒絶され、孤独の中に生きる。それは、きっと人生の終わりまでつきまとう孤独なんだと思う。関係性を結ぶ努力が実を結ぶこともあればそうでないこともある。よくある物語では、前者が美しく描かれるけれど、風の又三郎やよだかの星は後者の物語だと思う。
でも、その「人とはちょっと違う」人の姿が、又三郎のように美しい思い出や傷として人のこころに残ったり、よだかよのうに自分自身が満足できる最期を迎えられて美しい星として存在できるのであれば、その存在意義があったと言えるのかもしれない、なんてことを思ったりもした。

宮沢賢治は、安易な「救い」を描かないからこそ、やさしい。そんな気がした。彼は東北の貧しい地域のなかで裕福な家に生まれ、苦悩しながらも農村の人々のために尽くしたというエピソードがあるようだけれど、彼も孤独を感じながら自分の信じる道のために命を燃やしたのかなあ、なんて想像した。